
1975年1月21日 佐賀県鳥栖市に生まれる。物心つく前に、両親の別離のため熊本県熊本市へ転居。母ひとり、女手ひとつで育てられる。離縁した父は酒を飲むと鉄下駄を手に暴れるなど破天荒だったという。
1992年 入学した高校がエスカレーター式でほとんどの学生が勉強もせず大学に入れる学校だったため、周囲の無目的さに違和感を抱くようになる。中学卒業後から夜遊びを繰り返しろくに登校しなかったため、学内にはほとんど友人がいなかった。そのくせたまに出席しては試験でいい点を取るので、クラスメイトの反感を買うようになる。高2のおわりに、出席日数が足りず中退。せめて高校だけは卒業してほしいと母に懇願され、通信制の高校へ編入。この間、フリーターとしてアパレル、飲食店、土方など30種以上の職を経験する。2年留年し、卒業したのは二十歳のときだった。
1995年 渡豪。シドニーのフラット(アパートメント)に滞在後、バックパッカーとして安宿を転々とする旅に出る。この頃、はじめてカメラを手に写真を撮りはじめる。日本人とはほとんど喋らない、旅先のヨーロッパ人と行動をともにするなどひねくれた青年であった。ジャンキーが路上をふらつき、公衆トイレには注射針が落ちている危険な町、メルボルンのセントキルダを皮切りに、長距離バスやヒッチハイクなどで大陸を2/3周。なぜ2/3周だったかというと日本人観光客の多いゴールドコーストなど浮かれた東海岸には行きたくないという、これまたひねくれた理由からだった。この頃の体験が後の活動に大きな影響を及ぼすことになる。最終的にはビザが切れ、強制送還。
翌年、帰国。「カタカナ職業に憧れた」という、いい加減な理由でグラフィックデザイナーを目指す。貯金をするため、季節労働をしながら東北六県を半年間放浪。地元熊本に一時帰郷の際、フリーター時代の先輩が雑誌をつくっていると聞き、訪れたことをきっかけに事務所兼暗室に出入りするようになり、本格的に写真を撮りはじめることになる。路上のティーンエイジャーたちのドキュメント、夜のスナップ、カップル特集などを次々と企画し、撮影。黎明期から中期にかけて、欠かせない中心的な役割を担う。このときまだ20代半ば。求められる仕事の重みと、写真に対するこだわりから方向性の違いを感じ、苦しむようになる。地元、熊本で産声を上げた雑誌「エヌオー!」は数年後、福岡に進出、東京では「Tokyo Graffiti」という名で創刊されることになる。『美少女写真館』など、後年、全国的にフォロワーを生む人気企画にも携わった。
やがて写真家として独立したいとの思いが強くなり、4年半在籍した出版社を辞めて上京。いきなりフリーで食えるはずもなく広告代理店の制作部に勤務。1年後、フリーランスになるが道は険しく、体調を崩した上、両目に白内障を患うという不運が重なる。万にひとつ失明の可能性もあったが、両目の水晶体を抜き、眼内レンズを入れる手術はぶじ成功、退院後は以前にも増して猛烈な勢いで写真を撮りはじめる。
2006年、両目手術の前後1年間で撮りためた『LOVE! LIFE! LIVE!』が富士フォトサロン新人賞を受賞。クラブスナップ、日常を記録した膨大なカット数の中から250枚をセレクトし自主製本した同作品は、選考委員から激賞される。東京、大阪、福岡にて巡回展開催、約一年後、写真集として出版され、新人としては異例の3000部以上が全国の書店に並ぶことになる。
順調なスタートのように見えたが、山田の中では漠然とした思いが強くなる。新人賞を受賞し、写真集も世に出したが、思ったより何も変わらなかった。このことは当時からいまにかけての、写真を取り巻く周辺環境の変化も含めて語らなければいけないだろう。00年代に入り、デジタルカメラが爆発的に普及し、インターネットではプロアマ問わず無数の写真が見られるようになった。無尽蔵な情報過多、大量消費の時代に、作品は内容の善し悪しでは判断されない。写真の評価が揺らいでいるのではないか。
また、名のある写真家が自費出版でしか写真集を出すことができず、市場ではほとんど売れないという現状を間の当たりにしたことで、作品の発表方法、表現に対して疑問を感じるようになる。
2008年 写真家、横木安良夫氏との運命的な出会い。かねてから憧れを抱いていた横木氏の写真展を見に行った日、氏は初対面の山田を食事に誘う。山田の話を聞きながら「プロヴォークも、当時はマイナーだったんだ。待ってても時代は変わらない。伝説は自分たちでつくったらいいじゃないか」この言葉に、山田ははっとなる。
「できることからやってみよう」後日、同年代の写真家を集め、作品を見せ合う集まりを行なった。やがてこの活動は口コミで広がり、作品をプロジェクターで見せ、撮影者である写真家自身がプレゼンテーションする形式へと変化していった。
『PHOTOGRAPHERS SIMMIT』という名のこのイベントは、回を重ねるごとに規模を拡大し、徐々に写真界を揺るがすムーブメントへとつながってゆく。山田は、印象派の誕生となぞらえて語る。「肖像画を生業としていた職業画家たちが写真の発明とともに職を追われた。前衛的な芸術家たちはアカデミズムに対峙し、日夜カフェに集い独自の展覧会を企画した。いまや主流の彼らは、当時、傍流だったんです。デジタル化で誰でも写真が撮れるようになり、写真表現が混沌としているいま、僕は彼らと同じことを考え、やろうとしているのかもしれない」
2010年 写真誌の責任編集を行なう。時代に合わせた表現方法にエンターテイメントの要素を加え、自分たちの作品を発表することを編集方針に掲げた。
同時に「盗撮はアートになり得るか」をテーマに実験的な作品を撮影し、物議を醸すことになる。
「生きること、その一瞬の輝き」を伝え、撮り続ける。疾走する山田の作品はつねに「行動する写真」という美学に貫かれている。
